喜ばれる、ということ

春の露天混浴温泉で、タオルを巻いた女性と、笑顔で喜ぶ年配の男性たち。湯気と新緑に包まれた、やわらかく穏やかな空気。

こないだ、見たことのある顔の人たちが、
たまたま私のお尻が見えた瞬間に、
ものすごく喜んでくれた。

その反応が、なぜかとても印象に残っている。

こういう場では、
見られることに対して、
どこか身構えることもある。

同じように視線を向けられても、
少し落ち着かない気持ちになるときもあるし、
なんとなく距離を取りたくなることもある。

でも、あのときは違った。

不思議と、いやらしさを感じなかった。


なんでだろう、と思う。

見られた、というより、
喜ばれていた、に近かったからかもしれない。

それも、ただ嬉しそう、というより、
心からの喜びを、全身でそのまま表現している感じだった。

大の大人が、
それも60代くらいのおじさんたちが、
まるで子どもみたいに、
「ありがとう、ありがとう!」って言ってくれて。

そのあまりのまっすぐさに、
思わず笑ってしまった。


なにかを取りにくるような感じは、まったくなかった。

変に隠そうとしているわけでもなく、
かといって押しつけてくるわけでもなくて、
ただ起きたことに対して、
そのまま反応している。

その感じが、
空気をやわらかくしていたのかもしれない。


気づいたら、
もう少し見せてもいいかも、と思っていた。

見られているのに、
嫌じゃないどころか、
少しだけ、こちらも開いてもいいような感覚。

それが自分でもちょっと意外で、
だから余計に、印象に残っている。

そして、不思議なことに、
あのときの感覚は、まだ少しだけ残っている。


同じ「欲」でも、
こんなに違うことがあるんだな、と思う。

うまく言葉にはできないけれど、
たぶんそれは、見ようとすれば見えるものじゃなくて、
感じるものなんだと思う。

あのとき感じたものは、
たしかにそこにあった。


安心は、たぶんこういうところから、
少しずつ生まれている。

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