
混浴の朝の空気が好きだった。
まだ少し冷たい空気の中で露天に入って、
湯気の向こうに揺れる緑を眺めながら、ぼーっとする。
誰かが静かに湯に入ってきて、
少し会話して、また黙る。
そんな時間が好きだった。
以前はもっと自由な空気だった混浴も、ここ数年で急速に変わってきている。
もちろん、時代の流れもあると思う。
運営側にも、守らなければいけないものがある。
でも私は、ときどき考えてしまう。
あの場所にあった“解放感”は、どうして少しずつ失われているんだろう、と。
混浴には、もちろん緊張感もある。
欲望がまったく存在しない世界、というわけでもない。
見たい人もいるし、見られたい人もいる。
実際、私自身も、人の欲や、自分の欲に興味がある。
でも私は、混浴の魅力は、それだけではないと思っている。
露天に入っていると、
時々、しばらく誰も喋らない時間がある。
木の葉が風に揺れる音が聞こえて、
源泉が注がれる音がして、
みんなそれぞれ景色を見ている。
私は、あの時間が好きだった。
身体の力が抜けて、
「男」とか「女」とか、
社会の役割みたいなものが、少しだけ薄くなる。
ただ、人間としてそこにいる感じ。
パートナーや仲間たちと、同じ湯に浸かりながら、ぼーっと景色を眺める。
そういう時間を、私はとても大切に思っている。
でも、混浴は、そういう空気が自然に発生する場所ではないのだと思う。
混浴は、公共の場所だ。
静かに湯を味わいたい人もいる。
初めて来る人もいる。
長年通っている常連もいる。
全員が、同じ感覚でそこにいるわけではない。
しかも今、日本で、男女が同じ湯に入り、
自然体で過ごせる混浴は、もうそれほど多くない。
以前はもっと自由な空気の場所もあったけれど、
ここ数年で、タオル巻き必須になる混浴もかなり増えた。
だからこそ、あの空気は、実はとても繊細なバランスの上に成り立っている。
女性は、意外と周囲を見ている。
視線。
距離感。
声のトーン。
「この場所は大丈夫そうか」を、たぶん無意識に感じている。
でも、混浴に慣れていない人には、その空気が見えていないこともある。
混浴は、ただ「裸で入れる場所」ではない。
その場にいる人たちの、小さな配慮や距離感の積み重ねで、なんとか保たれている場所なのだと思う。
私は、欲望そのものを否定したいわけじゃない。
混浴には、たしかに独特の色気がある。
それは事実だと思う。
でも、結果を急ぐような空気や、周囲への想像力を失った振る舞いは、少しずつ場を変えてしまう。
急に距離を詰めること。
周囲より、自分たちの興奮を優先すること。
「見られている」ことを楽しみすぎてしまうこと。
そういうものが積み重なると、人は安心して力を抜けなくなる。
すると、場は少しずつ「管理」されていく。
ルールが増え、制限が増え、解放感が失われていく。
でも本当は、あの解放感こそが、混浴の魅力だったんじゃないだろうか。
私は、混浴を「なんでもしていい場所」だとは思っていない。
むしろ逆で。
あの空気は、
誰かの小さな配慮や、
空気を壊さない振る舞いや、
「何もしない」という選択によって、なんとか守られている。
放っておいても残る文化ではない。
だから、混浴に来る人には、少しだけ想像してみてほしい。
その場所が、どうやって今まで残ってきたのかを。
風の音を聞きながら、
ただぼーっと湯に浸かる時間。
誰かと少し言葉を交わして、
また静かになる時間。
私は、ああいう空気が、これからも残っていてほしいと願っている。
