
私たちは、群馬の混浴に通っている。
観光でたまに行く、という感じではなく、
気づいたら毎週のように来てしまう。
正直に言うと、少しおかしいと思う。
最低でも3時間は湯に入っていないと、入った気がしないし、
温泉に入りすぎてじんましんが出ても、やめられない。
しかも私は、片道3時間かけて電車で通っている。
ここまでくると、さすがに少しおかしいと思う。
「週末ここに来るために生きてる」
そんなふうに言う人も、ひとりではない。
でも、それくらい心地よくて、楽しい場所でもある。
観光地としての混浴とは、少し違う場所がある
群馬の混浴には、
観光地として知られている場所もある。
一方で、
そうではない空気を持った場所もある。
私たちが通っているのは、
どちらかというと後者の方だと思う。
一度行って終わりではなく、
気づいたら、また来ている。
観光地というより、
どこか“通う場所”に近い感覚がある。
通っている人たちの存在
その場所には、
いわゆる“常連”と呼ばれる人たちがいる。
毎週のように来ている人もいれば、
月に一度くらいのペースで訪れる人もいる。
誰かが決めたわけでもないのに、
なんとなくそこに集まり、
なんとなく同じ時間を過ごしている。
特別なコミュニティというよりも、
ゆるやかな重なりのようなもの。
それでも、何度か顔を合わせていくうちに、
少しずつ距離がほどけていく。
なぜ通ってしまうのか
理由はひとつではないけれど、
大きいのは「人」だと思う。
私の場合、そこには会いたい人がいる。
特別に何かをするわけではなくても、
同じ湯に浸かって、少し言葉を交わすだけで、
満たされる時間がある。
そして、混浴という場所は、
人がよく見える。
(→ 同じ湯に、いろんな人が浸かっている)
身体が隠れていない分、
仕草や距離感、視線の動きまで、
その人の“あり方”が自然と表れる。
欲のようなものも、
どこか正直に見えてくる。
それを見ることも、
見られることも、
不思議と嫌ではなくて、
むしろ少し心地よい刺激になる。
そういう感覚が、
少しずつ癖になっていくのかもしれない。
その場所を支えている人たち
いつも同じ場所に、
必ずいる人がいた。
いわゆる“コアなワニ”で、
いつ行っても、だいたいそこにいる。
いつもニコニコしていて、人当たりもいい。
でも正直に言うと、
すごく気が合うわけでもなくて、
少し疎ましく感じてしまうこともあった。
けれど、その人がいなくなってから、
なんだかその場所が締まらなくなった。
少しさびしい、とすら思う。
その人は、
慣れていない人が来たときには、
「ここまでは大丈夫だけど、それ以上はやめた方がいいですよ」と
やさしく伝えていたし、
場の空気を壊しそうな人が来たときには、
ちゃんと注意もしていた。
自分にメリットがあるわけでもなく、
むしろ陰で何か言われることもあったと思う。
それでも、その混浴を守るために、
言うべきことを言う人だった。
いわば、番人のような存在だったと思う。
こういう役割の人がいることも、
混浴の特徴のひとつだと思う。
(→ 混浴にいるワニが必要とされるとき)
そういう人がいなくなると、
場の空気は、少しだけ変わる。
そして、その変化に気づいたとき、
はじめて、その人の存在の大きさに気づく。
混浴という場所は、
ただ人が集まっているだけではなくて、
こうした見えない役割を持った人たちによって、
静かに保たれているのかもしれない。
安心は、自然に生まれるものではなく、
こうした積み重ねで保たれている。
(→ 安心は、空気ではなく構造で作る)
群馬という場所の意味
もし同じような場所が東京にあったとしても、
たぶん同じ空気にはならないと思う。
群馬まで来るからこそ、
成り立っている部分がある。
日常の延長ではなく、
少しだけ切り離された場所。
混浴に関係のない知り合いに会うこともなく、
余計な緊張を持ち込まなくていい。
まわりには自然があって、
季節ごとの変化も豊かで、
それだけで少し気持ちが安らぐ。
そして、人が多すぎない。
東京の温泉やお風呂は、
どこに行っても混んでいて、
かえって疲れてしまうこともある。
その点、群馬の混浴には、
ちょうどいい余白がある。
東京との違い
東京では、
人との距離を常に調整し続けているような感覚がある。
近すぎてもいけないし、
遠すぎても不自然になる。
その緊張が、
どこか抜けきらない。
でも、混浴では、
そのバランスが少しだけ自然になる。
誰かと話してもいいし、
話さなくてもいい。
無理に関わらなくても、
そこにいていいと思える。
その違いは、
思っている以上に大きい。
はじめての方は、
事前に少し知っておくと安心かもしれません。
(→ 混浴温泉を関東で探している女性・カップルが、最初に知っておきたいこと)
それでも、普通ではないと思う
毎週のように通って、
何時間も湯に浸かっている。
客観的に見たら、
やっぱり少し普通ではないと思う。
でも、その中にいると、
それが特別なことには感じなくなる。
むしろ自然で、
心地よいものとして受け入れてしまう。
その感覚のズレも、
この場所の面白さのひとつかもしれない。
いつもの顔があるという安心
いつもの湯には、
話したことのない人でも、
「いつもの顔」がある。
それだけで、少し安心する。
会話がなくても成立する関係が、
そこにはある。
群馬の混浴は、通ってしまう場所だった
群馬の混浴は、
観光で一度行く場所ではなく、
気づいたら通ってしまう場所だった。
普通ではないかもしれない。
でも、それでもいいと思える人が、
また来てしまう。
そういう場所なのだと思う。
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毎週通われている気持ち、分かる様な気がしますね
片道3時間、現地3時間、帰り3時間
中々ハードですね!
群馬にはたくさんの混浴がありますよね。
自然溢れる川の温泉
川のせせらぎを聞きながら川の脇にある温泉
大正ロマンを感じられる温泉
天狗のお面で有名な温泉など
混浴で知り合える出会いも大切にしたいと思っています。